薊の森

備忘録

稲生家―怪異現象と稲生家の謎―

BunChoというAIを利用した執筆支援ツールで『准教授・高槻彰良の推察』の二次創作を制作しました。

途中で飽きてきて中途半端な出来ですが。

対話型執筆というツールで、あらすじ生成で制作したあらすじに合わせてAIが文章の続きの選択肢を表示してくれます。

あらすじは「とある大学の准教授である高槻彰良は、大学が閉鎖されると言う異常事態に困惑していた。そして怪異事件にも巻き込まれた。」です。

 

稲生家―怪異現象と稲生家の謎―

 

高槻彰良は困惑していた。
というのも、今年になって突然、大学が閉鎖されるという異常事態に直面していたからである。
大学が閉鎖されると言う異常事態は、当然ながら、怪異と関係していようか? そんな疑問を抱かせるほどのものだった。
そう。稲生家の噂は、まだあるという。
稲生家は、人ならざる者、妖怪、そして怪異などという存在も数多く生み出していたと言う。
そういった存在を、稲生家は研究していたと言う。しかし、その研究が、怪異を産み出すという研究だったことは、もう何年も前の話。
しかし、今になって、こんな大学が閉鎖されるなんていう異常事態に巻き込まれていた。
理由は、大学職員が全員、怪異に襲われたこと。そして、怪異現象に関わる研究者の大半が、事故に遭ったことが原因らしいとのことだった。
幸い、高槻は難を逃れているが、それでもこれは大問題だ。なにせ、怪異現象は、今なお、続いているのだ。それがわかったから、高槻は困惑しているのだ。
「さて、と」
これからどうしようか。それを考えると、頭を悩ませた。そのことより、だ。
今は、怪異現象の方だ。甘いココアを飲みながら、そんな考えにふけっていた。
すると、不意に、そんなことを考えていたからだろうか。足元が、フワ、と浮き上がるような感覚を覚えた。
なに!? と、慌てて、足元を見る。すると、そこには、小さな影があった。大きな犬でも、抱き着いたかと思うような大きさ。
「やあ、こんにちは」
そんな小さな影は、高槻に挨拶してきた。そして、まるで挨拶した相手を追いかけるかのように、足元に張り付いてきた。
「え? これ、なに?」
これはどういうことなのか? 疑問で、一杯になる。しかし、そんな高槻に、その影は言った。
「私は君が追い求めているものだよ」
え? と疑問を投げかけるが、影は何も答えてはくれなかった。
「さて。そろそろ行きましょうか」
そう言って、影は高槻の手首を掴んだ。そして、そのまま、引きずるように歩かせた。
高槻は抵抗するも、影は、逃がさず、引きずっていく。高槻は結局、引きずられることになるのだった。
そして、目的の場所に着いた。そこは、稲生家だ。
「ここは、」
この屋敷のどこに、このような怪異があるのだ? 高槻は目の前の影をじっと見る。影も高槻をじっと見ていた。
「そう。ここだよ」
そう言って、影は自らのポケットから白い紙切れを取りだし、それを高槻に見せる。
その紙を見た高槻は、目を丸くした。そして、すぐに納得した。
『稲生家の呪い―稲生家の怪異―稲生家は人を呪っているが、これを破ることはできない』
この怪異は、人を呪い、稲生家をも呪っているのだ。いや、稲生家を呪うのではない。この呪いは、稲生家の血である。
つまり、稲生家は妖怪に憑かれている。そして、これを解けば、この呪いが解ける。
しかし、問題は、この怪異をどう解けばいいのか?
高槻は、紙切れを見る。書かれているのは、稲生家の名と家の名前と、この怪異に関する記述。それを読み上げる。
そして、読み上げた後に。
「―――――」
その紙を、燃やした。紙が燃えた理由は、その紙には、稲生家の血が混じっているからだ。
「やっぱり、そうか」
高槻は、紙を燃やして、怪異と稲生家の呪いを打ち消す。そして言ったのだった。

あみもの第三十七号感想③源薫さん

Twitterでご希望をいただいて、あみもの第三十七号の感想を書かせていただきます。

 

三番目は源薫さんの『クリスマスは過ぎ去って、正月もまた過ぎ去った』。

 

年末の浮かれた気持ちと焦燥感、それでも日々はすぎていくという感じがよく表れていると思います。

無知で申し訳ないのですが、中山咲月さんという方をこの作品で初めて知りました。

ジェンダーレスモデルと呼ばれているのですね。

「片付けが出来ないことを直視せず~」に思わず「わかる!」と頷きました。

「『御伽の街』を聴きながら街を行く~」で『御伽の街』という曲の歌詞を検索したら、少々物騒な内容で、コロナ禍で人混みを行く主体の心境を示していると思います。

 

検索しながらの感想でしたが、連作に組みこまれた固有名詞について知るのは楽しかったです。

あみもの第三十七号感想②菊池洋勝さん

Twitterでご希望の投稿者さまのあみもの第三十七号の感想を書かせていただきます。

 

二番目は菊池洋勝さんの『写生』。

 

「ミユージツクビデオのやうな赤坂の~」の具体的な「赤坂」「一月四日」という言葉選びが印象的でした。

「ミユージツクビデオ」と「夜学」の対照的な並びも想像がふくらみます。

主体はどこか馴染めない思いをしているのでは。

 

菊池さんの連作は三首という素っ気なさながらも、日常の一瞬をていねいに切り取った、まさに「写生」といった短歌だと思いました。

あみもの第三十七号感想①笛地静恵さん

Twitterでご希望をいただいて、あみもの第三十七号の感想を書かせていただきます。

 

 

 

一番目は笛地静恵さんの『テレビを見る時には部屋を明るくして隠れて見て下さい』。

 

最初に読ませていただいて目に留まったのは、「コンビニでアリガトだけを~」「見わたせば花も夢二も~」「ひのきの柱つややかに立ち~」でした。

「アリガト」という片言の発音が、テレビしか相手にしておらずに対人間ということに不慣れな感じを受けます。

「裏の空き家の冬の夕ぐれ」という景がもの悲しくも惹かれました。

「一枚の素肌をめくるかんな掛け」という比喩が、私には思い浮かびませんので、すごいなあと思いました。

 

笛地さんの連作は凝った印象を受けます。私には少し難しいですが、個性的でとてもいいと思います。

他薦3首と感想②諏訪灯さん

Twitterで希望者を募集して始めた企画、今回は二回目、諏訪灯さんです。

うたの日で筆名で検索して新しい順に書かせていただきました。

 

青空をはじめて目にしたみどりごの瞳に満ちる無垢の明るさ
生まれて間もない赤ん坊が初めて青空を見る、ということは退院の日の出来事でしょうか。「はじめて」「みどりご」を平仮名に開くことでやわらかな雰囲気になっています。まだ世界を知らない故に無垢で、明るさに満ちているという表現が、この先の我が子の幸せと希望の多さを願う親心のようにも感じられます。

 

縁側の猫から子どもに繋がって家族をまわるあくびのバトン
とてものどかな微笑ましい光景を詠んだ歌です。休日の昼間でしょうか、一家が揃っている状態なのですね。あくびがうつるとよく言いますが、それは相手に共感や関心がある脳の働きという説が有力だそうです。子どもは猫に愛情と関心があり、家族もまた子どもに愛情や関心があるということが「あくびのバトン」で表されています。

 

行く道を迷えばいつも思い出すきみの言葉がコンパスになる
「きみ」と呼べる相手ということは恩師や年長者ではないのでしょう。親友、かつての恋人などが思い浮かびます。人生の岐路に立たされて行く道に迷った時、「きみ」の言葉がコンパス、道標になってくれるというのは心強く、信頼のおける相手だと伝わってきます。親友ならばいいですが、かつての恋人だったら少し切ないと感じました。

 

今回、諏訪灯さんの短歌を読ませていただいて感じた印象は、妊娠から出産、育児、大病、家族の歌が多いということでした。諏訪さんとお子さんのシリカさんとも歌会でお会いしましたが、育児の歌は実体験なのかしらと感じることが多かったです。引かせていただいてありがとうございました。

 

(2019/09/05)

他薦3首と感想①なぎさらささん

せっかくnoteに登録したのに活用出来ていないということで、うたの日から他薦3首とその感想を先着3名で書くという企画を立て、Twitterで希望者を募集しました。今回はその一回目、なぎさらささんです。

うたの日で筆名で検索して新しい順に書かせていただきました。

 

くっついた餃子を箸で剥がす手でいつかは君の骨を拾うよ
火葬場まで付き添って行けるということは、主体は「君」とは結婚しているのでしょうか。まだ恋人の段階なのかもしれません。日常の食卓で餃子を剥がす箸から、いつか火葬されるであろう「君」の骨を拾うという将来の非日常への思考の飛躍が、とても印象的な歌だと感じました。話しかけるような文体ですが、実際に「君」には言っていない、空想の域だと思います。

 

スガキヤのラーメンフォークをいつまでも使えないまま大人になった
スガキヤのラーメンフォーク、東海圏のひとにとっては馴染み深いものですが、それを大人になっても上手く使えないという不器用さが、主体の生きづらさを表しているように思います。大多数のひとは慣れでラーメンフォークを上手く使えるようになるのかもしれません。けれどその中で主体は使えないまま大人になってしまったという孤独感も感じられます。

 

糊代を付け忘れたから人生をうまく組み立てられないでいる
「糊代を付け忘れた」というのは面白い例えだと思いました。工作をするのに糊代がないことは一見すれば致命的な失敗なようですが、組み立てて完成させるためには糊代がないなりになんとかするしかありません。人生も同様です。しかし工作と違って途中で放りだすことは出来ません。主体の生きづらさをユーモラスに表しながら悲哀も感じさせます。

 

今回、なぎさらささんの短歌を読ませていただいて感じた印象は、ポップ、切なさ、野球、実体験に基づいたであろう生きづらさでした。Twitterでもツイートを拝見していますが、人となりが想像出来るような作品が多かったと思います。引かせていただいてありがとうございました。

 

(2019/08/28)

母に捨てられた話

子どもの頃、私は母に捨てられたことがある。憶えているだけでも二回、一回目は小学生の頃、二回目は中学生の頃だ。

それでなくても小学生の頃、土曜の昼に学校から帰ると父母は外出していることが多く、家の鍵を持たせてもらっていなかった私は玄関先で座りこんで泣きながら親の帰宅を待つほかなかった。近所のひとが見かねて家に上げてくれたこともある。

一回目に母に捨てられたのは、お正月に母の友人とその子どもに会うために母と私、妹で名古屋のデパートに行った時のことだ。

私は家族とはぐれてよく迷子になる子どもだったのだが、その日も母たちとはぐれ、勝手のわからないデパートで途方に暮れていた。呼びだしアナウンスをしてもらっても一向に母は迎えには来てくれない。

辛うじて記憶していた自宅の番号に電話してみると、母と妹はすでに帰宅していて自分で帰って来いと言う。泣きながら電車やバスを乗り継いで漸く帰宅した時、私は母に捨てられたのだと気付いた。

それ以降も無理やり通わされた遠方の学習塾の夏期講習の帰り、高校受験の帰りなど、迎えに行くからと約束した母はしばしば迎えには来なかった。炎天下や寒風の中を数時間歩いて帰りながら、私が母への恨みを募らせていったのは無理もないことだと思う。

二回目に母に捨てられたのは、中学の春休みのことだった。私と喧嘩を繰り返した挙句、母は何も告げず妹を連れて東京に単身赴任中の父の元へ一週間ほど行ってしまったのだ。家出だ。

母がいない間、どうやって生きていたのかは記憶がない。買い置きの食料でなんとか食いつないでいたのかもしれない。

母はいまの言葉で言う『毒親』で、ネグレクトと過干渉が凄まじく、父もまたしつけと称して頻繁に体罰を振るうタイプだった。食事を与えられなかったことも多く、給食にがっつく私をクラスメイトは嘲笑したが、彼らはきっと恵まれた家庭で育っていたのだろう。

幼かった私には家にも学校にも居場所がなく、漠然と「死にたい」「消えたい」と思っていた。いまでも希死念慮は消えることはない。

 

(2020/01/02)