薊の森

備忘録

母に捨てられた話

子どもの頃、私は母に捨てられたことがある。憶えているだけでも二回、一回目は小学生の頃、二回目は中学生の頃だ。

それでなくても小学生の頃、土曜の昼に学校から帰ると父母は外出していることが多く、家の鍵を持たせてもらっていなかった私は玄関先で座りこんで泣きながら親の帰宅を待つほかなかった。近所のひとが見かねて家に上げてくれたこともある。

一回目に母に捨てられたのは、お正月に母の友人とその子どもに会うために母と私、妹で名古屋のデパートに行った時のことだ。

私は家族とはぐれてよく迷子になる子どもだったのだが、その日も母たちとはぐれ、勝手のわからないデパートで途方に暮れていた。呼びだしアナウンスをしてもらっても一向に母は迎えには来てくれない。

辛うじて記憶していた自宅の番号に電話してみると、母と妹はすでに帰宅していて自分で帰って来いと言う。泣きながら電車やバスを乗り継いで漸く帰宅した時、私は母に捨てられたのだと気付いた。

それ以降も無理やり通わされた遠方の学習塾の夏期講習の帰り、高校受験の帰りなど、迎えに行くからと約束した母はしばしば迎えには来なかった。炎天下や寒風の中を数時間歩いて帰りながら、私が母への恨みを募らせていったのは無理もないことだと思う。

二回目に母に捨てられたのは、中学の春休みのことだった。私と喧嘩を繰り返した挙句、母は何も告げず妹を連れて東京に単身赴任中の父の元へ一週間ほど行ってしまったのだ。家出だ。

母がいない間、どうやって生きていたのかは記憶がない。買い置きの食料でなんとか食いつないでいたのかもしれない。

母はいまの言葉で言う『毒親』で、ネグレクトと過干渉が凄まじく、父もまたしつけと称して頻繁に体罰を振るうタイプだった。食事を与えられなかったことも多く、給食にがっつく私をクラスメイトは嘲笑したが、彼らはきっと恵まれた家庭で育っていたのだろう。

幼かった私には家にも学校にも居場所がなく、漠然と「死にたい」「消えたい」と思っていた。いまでも希死念慮は消えることはない。

 

(2020/01/02)